不可視の痕跡

「鷹臣様!!どうかこの愚かな真冬にお情けを!!」
 後の鷹臣くん曰く、この時の私の土下座は芸術的な美しさだったらしい。

事の顛末はこうだ。
私は今日が休日なのを良いことに、晩ご飯を食べた後格闘ゲームに明け暮れた。今度対戦するとき、かの魔王を打ち負かせるように。お風呂も後回しにして、明日は学校があるにもかかわらず没頭した。そのまま十時を回ってしまって、さあお風呂に入ろうと脱衣所へ向かった。服を脱いでお風呂場のドアを開けて、お湯を被ったつもりが水だった。心臓が止まるかと思った。
色々試してみたもののどうやら給湯器の故障らしく、今日中にお湯が出るとは考えにくかった。その上近くの銭湯なんかは一つも知らない。かといってお風呂に入らないわけにもいかなかった。
ところがそうして困っている時に隣の部屋から物音が聞こえてきたのだ。そこでお風呂を借りるあてがあることに気がついたので、慌てて部屋を飛び出した、という訳だ。

そして今に至る。
 隣の部屋の主は非常に不機嫌で、鬼の形相とはこのことかと身に染みて実感した。
「なあ真冬よ」
「はい」
「今何時だと思ってんだ?」
「午後十時……三十分です……」
 恐る恐る顔を上げると、依然鷹臣くんは鬼のままだった。
「近所迷惑になるだろうが。変な噂立ったらどうしてくれんだ?……ったく」
「すみません……」
 重ね重ね土下座をしようとすると制止された。
「とりあえず上がれ」

「……で、何の用なんだ?」
「それがお風呂壊れちゃって。貸してもらえないかなー、と思いまして……」
 両手の人差し指を突き合わせながら、私の視線はあさっての方向を向く。こんな時間に押しかけてしまったことへの罪悪感は拭えない。
「それで俺のとこ来たってか……。まあ、銭湯に行かなかったのは正解だな」
「そうなの?なんで?」
「こんな遅くに一人で出歩くのは危ねえだろ」
「ああ!人を助けたらケンカしたこと学校に言うぞって脅された挙句買った食料を盗られたり?」
「殴るぞ」
 思いついたままに喋ったら鋭い眼光で睨まれた。
「……そうじゃなくて、最近痴漢とかそういうのが多いんだと。職員会議でも取り上げられてて、近々ホームルームで生徒にも注意喚起する予定だ」
「へえ……」
「だからしばらくはあんまり夜出歩くんじゃねえぞ。特にお前寮生じゃねえから、門限とかもねえだろ」
 心配してくれたのかと思うと少し照れくさくなる。
「そんだけだ。さっさと風呂入ってこい」
「あ、じゃあ着替えとタオル取ってくる」
「別にタオルはこっちの使っても良いぞ」
「そう?じゃあお言葉に甘えて」

一旦自分の部屋に帰って、着替えだけ準備して再び鷹臣くんの部屋に戻ってきた。タオル1枚といえど洗濯物が減るのは助かる。

「俺今から明日の授業の準備するから。上がったら声かけてくれ」
「わかったー」
返事をしてお風呂場へと向かった。

間取りが自分の部屋とそっくりなので、お風呂場は簡単に見つけられた。
湯船に体を浸けると、お風呂に入ることができることへの喜びがふつふつ湧いてきた。
「い、生き返る……!!」
我ながらおっさんくさい反応だと笑ってしまう。でもまあ良いじゃないか。お風呂に入れるって幸せだ。失って初めて気がついた。我が家のお風呂もなるべく早く修理してもらわないとなあ。
お湯の中から辺りを見回してみる。構造自体は自分の部屋のお風呂と同じなのに、置いてあるものが違うと印象って変わるものなんだなあ。シャンプーもボディーソープも洗顔も、置いてあるもの全部が男性用だ。しかもちょっと高いやつ。CMで見たことある。初めて会った、というか再会したときのいい匂いの正体はこれか?それとも香水とか普段からつけてるんだろうか。

……

……

うん。

色々考えていたら妙に緊張してきた。
よく考えたらとんでもない状況じゃない?男の人の家のお風呂借りてるわけだもんなあ……。自分の部屋のカギ失くして泊まったときのことまで思い出してきた。
……なんか暑くなってきたし考えるのやめよう!きっと長湯したせいだ!うん!まだ湯船浸かって一分とかだけど!早く上がろう!鷹臣くん明日早いらしいし!

そこからは光の速さだった。思考を消し去るためにうおおと雄叫びをあげながら髪や体なんかを洗って、すぐにお風呂場を出た。

部屋に戻ると鷹臣くんはベッドに背中を預けながら地べたに座っていた。その周りにはプリントが数枚。
「鷹臣くん、お風呂あがったよ。貸してくれてありがとう」
「おー。……って、なんか顔赤くねえ?のぼせたか?」
「ソソソンナコトナイヨ」
「嘘くせえな……」
 何やら冷ややかな目を向けられる。かと思いきや手を引っ張られ、鷹臣くんの脚の間に座り込む姿勢になった。
「えっ!?何!?」
「良いからしばらく休んどけ」
 のぼせたを否定したわけじゃなかったんだけどな。いや、実際のぼせてはいないんだけど。こんな体勢じゃ余計顔が赤くなるんじゃないだろうか。ていうか鷹臣くんはこの体勢恥ずかしくないの?
 様子が気になってそっと見上げると、鷹臣くんはこちらを覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「いや、悪くねえなと思って」
「何が?」
「俺にもたれかかって顔真っ赤にしてるのが」
「はあ!?」
 ニヤニヤしながら何を言い出すんだこの男は!!
「おーおー照れるな照れるな」
「照れてない!のぼせただけだって!」
「あんな早く上がってきといてのぼせるわけねえだろ」
 図星だ。出来るなら回し蹴りでも食らわせて今すぐ逃げ出したいけど、何せ鷹臣くんに抱え込まれている状態なので立ち上がるのも難しい。
「……ま、それだけじゃねえけどな」
「え、何か言った?ごめん聞いてなかった」
「何でもねー」
「ふうん……」
 一瞬の沈黙。
 は、すぐに破られて鷹臣くんが辺りをゴソゴソと物色し始めた。物音がうるさい。どうやらプリントを取りたいらしい。
「……ところで真冬よ」
「何?」
「邪魔だ」
 軽々と横に投げ捨てられる。
「あんたがさっきの体勢にしたんだろ!」
 投げ捨てられたことに猛抗議。
「俺明日授業あんだよ」
「私もそうだよ!」
「じゃあ早く帰って寝ろ。寝坊して遅刻すんなよー」
 なんて自分勝手な!と言いたいところだけど、こっちはお風呂を貸してもらってるわけだし、大人しく退散することにした。お風呂の恩は何らかの形で返すことにしよう。

翌日。全ての授業が終わって学校中が解放感に包まれた頃、一組の教室に忍者がやってきた。おおかた私と早坂くんを部活に誘いに来たんだろう。部室へと向かうべくカバンに荷物を片付けようとしたところ、忍者が突然変なことを言い出した。
「……黒崎、今日は何かいつもと違うな?忍の目は誤魔化せんぞ」
「へ?」
隣にいた早坂くんも食いつく。
「あー確かに俺も気になってた。匂いか?」
匂いならそりゃ目は誤魔化せないね!見えないもんね!
……ちょっと待て。匂い?
「ふむ。言われてみればそうだな。ところでこの匂い、どこかで嗅いだことがある気がするのだが」
忍者の発言で閃きとともに体中に電流が走った。二人が言っているのは鷹臣くんちのシャンプーの匂いだ。いくら鷹臣くんとは幼なじみでも、二人がそれを知っていても、鷹臣くんちのお風呂に入ったことがバレるのは何かまずい気がする。しかも段々昨日のことまで思い出してきた。ああもう!!
「……黒崎?顔真っ赤だけどどうした?」
「いやっ何でもない!!何でもないよ!!」
「大丈夫か?保健室行くか?」
早坂くんの心配が眩しい。でも今はあんまり見ないで!!
「大丈夫だから!!ほらっ部活行こ!!」
二人を押し出すようにして教室を出る。
教室に残っていた鷹臣くんがやけに上機嫌だったことは、後で忍者から聞いて初めて知った。