夏の終わりは

「残暑」とは、暦の上で秋になっても続く暑さを指す言葉である。立秋を迎え、それもとっくに半月を過ぎたというのに、依然として日差しと蝉の鳴き声は容赦なく降り注ぐー

八月も終盤に差し掛かる頃。野々口歌音と野上健斗は今日も図書館で机に向かっている。二人の勉強会が恒例のものとなったのも、今では少し前のことだ。それぞれが問題集に視線を落とし、黙々とシャープペンを走らせる。館内は冷房が効いているため暑さを気にせず集中出来るのが良い。夏の喧騒から離れられるのも歌音のお気に入りだ。この場所には賑やかな話し声など似合わない。ただ本のページを捲る音と筆記具が紙に擦れる音だけが響き、所々で湧き上がる会話は他人に迷惑をかけるまいと遠慮がちに行なわれるのだった。
「悪い、ここの問題なんだけどよ」
「ああ、この問題の解法は……」
遠慮がちな会話はこの二人も例外ではない。なるべく周りに聞こえないように、と野上は小声で話しかける。そのままの距離では聞こえないから、歌音は机に乗り出して野上に顔を近づける。その度に涼やかな白いワンピースがふわりと舞い野上が少し動揺することに、歌音は気づいていなかった。
野上が歌音に質問すると、歌音はすぐに返答する。これが定番で、今でも続いていることだ。しかし最近では歌音から野上に問いかけることも増えてきた。

長い沈黙と少しの会話を繰り返しているうちに脳が熱を持ち始める。そうなったら休憩の合図だ。カタン、と机にシャープペンを置く音が響いた。
「休憩にするか」
「あ、ああ」
休憩を提案するのはいつも歌音だ。毎回野上の返事に力はなく、休憩という概念自体を忘れていると言わんばかり。その度に歌音は少し呆れて溜息をついて言う。
「また没頭してたんだろう。休憩を入れないと体を壊すと何度言ったら分かるんだ」
「わ、悪い」
「……別に、謝る必要はないんだが。無理は禁物だと言いたいだけだ」
立ち上がりながらそう言った歌音は少し申し訳なさそうで、野上から視線を逸らしていた。
「どこか行くのか?」
「せっかく図書館に来てるんだから、本でも探しに行こうかと思ったんだ。……一緒に行くか?」

歴史の本はこっち、スポーツにまつわる本はあっち。館内はジャンルごとに本が分けられている。どの分野も、夥しい数の本が本棚を埋め尽くす様は壮観だ。図書館特有の静けさは基本的にはどの本棚の周りも同じだった。しかし一箇所だけ、ほんの少し、他より多く話し声が行き交う場所があった。
「この辺りの本は子ども向けみたいだな」
歌音が言った。
絵本や児童書がたくさん並ぶその場所では、親子の会話が繰り広げられていた。読みたい本を自分で取ってきた子を褒める母がいて、親子は手を繋いでカウンターへ向かっていった。似た光景が他にもいくつかあった。
この本懐かしいな、と歌音が手に取ったのは児童書だった。転校先の小学校の図書館に置いてあって、よく読んだらしい。童心に帰る歌音を、野上は穏やかな表情で見つめていた。昔からは考えもつかないような平穏な時間だった。
野上も辺りを物色し始めた。野ねずみの双子や、赤い魚の群れに混じる真っ黒な魚が描かれた表紙が並んでいた。あちらからこちらへと視線を移動させると、一冊の絵本が唯ならぬ存在感を放っていた。野上には、そう感じられた。
姫の手を取る王子様の絵が野上の目に入った。紛れもなく、かつて野上が破ってしまったものと同じだった。歌音を深く傷つけてしまったことを思い出す。全身の血の気が引いて、自分のした事を忘れるな、と圧をかけられたような気分に苛まれた。自分はこんな平穏な時間を過ごしていい人間ではないんだ、という思いが野上の心に渦巻いた。
「……どうした?顔色が悪いぞ?」
歌音の声で野上は我に返った。
「いや、何でもねえ。そろそろ戻るか」
そう言って二人は勉強へ戻った。野上の声は少し震えていた。

「……明るいうちに帰るか」
歌音の一声で、二人は帰り支度を始めた。図書館を出た途端に外の熱気が襲う。来たときの油蝉の鳴き声は、蜩のそれに変わっていた。八月の終わり、夕方と言えどもまだまだ暑さは終わりそうもない。地面には二人の影がくっきりと浮かんでいる。一歩一歩自宅へと向かう帰り道、沈黙を破ったのは野上の方だった。
「なあ野々口」
「どうした?」
「今まで勉強付き合ってくれた分、礼させてもらえねえか?」
 そう言った野上は親指で道沿いの駄菓子屋を指していた。
「すいません、ラムネ二本ください」
駄菓子屋の店員に野上が言う。冷蔵ケースから取り出された細長いビンには水滴がまとわりついてその冷たさを物語っている。会計を済ませ、ありがとうございますと一声かけて駄菓子屋を出た。

通り道に公園があったのでそこに立ち寄ることにした。ベンチに座って、野上がビンを一本歌音に手渡す。それぞれのビンでビー玉がカラン、と音を立てて落ちた。喉を通ったラムネは体中の熱を冷ましてくれた。
「悪いな、礼なんて言った割に大したもんじゃなくて」
「たまにはこういうのも懐かしくて良いんじゃないか?それに私も野上に教えてもらったりしてるんだ。高価なものは気が引ける」
そう言って歌音はもう一口ラムネを飲んだ。
再び沈黙が訪れる。二人とも黙り込んで数分、歌音が口を開いた。
「なあ、野上」
「休憩した後から顔色が悪かったが、どうかしたのか?」
「い、いや、そんなことはねえけど……」
曖昧な返事に歌音が切り込む。
「見つけたんだろう、あの絵本」
野上はいっそう青ざめた顔で、目を見開いて歌音を見た。一方の歌音は冷静で、真っ直ぐ野上を見つめていた。
「隠さなくてもいい。それに今更気にする必要ないんだ。」
「いやっ、でも」
「でもじゃない」
野上の反論はすぐに歌音に制止された。
「……お前は、ちゃんと謝ってくれただろう。もし私がお前を許してなかったら、こんなにも長く勉強会を続けるはずがない。それに、逃げ出しても良かったと前も言っただろう。だから、もう良いんだ。これ以上自分を責めないでくれ」
歌音の声は次第に罪悪感を孕んでいった。
「わ、悪い、そんな顔させたかった訳じゃ……」
慌てる野上の額が歌音の中指によって思い切り弾かれる。
「そう思うなら、今後は気にしないことだ」
「……はい」
きょとんとした表情のまま返事をする野上を見て、歌音は満足そうに笑みを浮かべた。
「じゃあ、帰るか」
二人は立ち上がり、再び歩を進めた。
次は来週だな、と歌音が言う。これが最後じゃないのか、とかなり動揺している野上を見て歌音が破顔した。