ガチャリ、と扉の開く音が響いた。
「お邪魔します」
声をかけ、賑やかな部屋に足を踏み入れるのは、家主の弟、野崎真由。
「おお、真由か」
「真由くん!元気だった?」
「真由!久しぶりじゃねえか〜!」
そう言ったのは野崎梅太郎、佐倉千代、御子柴実琴の三人。皆が出迎えてくれたからだろうか、心なしか真由の表情が明るくなる。とはいえ真由は元来無表情な方である。真由の微妙な変化に気づく者はおらず、依然三人は会話を続けている。駅前にある洋菓子店の新作が美味しそうだとか、家で作れないか試してみようだとか、俺も食べたいだとか。すると突然会話の矛先は真由の方に向いた。
「ところで真由くんは何で野崎くんのお家に来たの?」
「兄さんがしばらく実家に帰っていないので、両親から様子を見てくるように言われました」
千代からの質問に無愛想に返答する。これでも初対面のときより随分親しみやすくなったものだ。
「真由は面倒くさがりだからな。用事がないならわざわざここまで来ることなんてないだろう」
「いや、兄ちゃんが家にいないとなると寂しくなって遊びに来たりもするだろ…なあ?真由」
そういうものか、と野崎が少し嬉しそうな表情をするが、真由は淡々と返答した。
「いえ、来ないと思います。面倒なので」
先程まで賑わっていた部屋に一気に沈黙が訪れる。
「…でも真由くんも熱中するものはあるよね。柔道とか」
「そうですね、柔道は好きなので」
場の空気を戻すだけのつもりで発言した千代だったが、真由の言葉に反応し言葉を続ける。
「好きだからかあ。じゃあ、真由くんに好きな子ができたらすごく熱烈にアピールしそうだね」
「好き、ですか」
「うん」
「千代さんの言う好き、というのはどんな感じなんですか」
真由の意外な食いつきに御子柴の筆が止まる。そんなこと興味あったのか、と言わんばかりに目を丸くする。一方野崎はというと何も気に留めず原稿を進めていた。千代の頬はみるみるうちに紅くなる。自然と上目遣いになりながら野崎を一瞥し、真由の方を向き直す。
「ええと、好きっていうのは、ふと気がついたらその人のことを考えてたり、その人と一緒にいたいなーって思ったり…?ってもうみこりん!こっち見てニヤニヤしないで!」
一緒にいたいねえ、と御子柴が動揺した千代をからかっていたが、そのやり取りの意味が真由には分からなかった。それに加えなぜだか黒い澱みのようなものが真由の心を覆った。
「男なら、好きな子を自分のものにしたいという欲も湧くだろうな」
途中から話を聞いていたのであろう野崎がそう続ける。それ少女漫画の世界の話だろ、と御子柴が呆れた返事をする。千代は野崎の発言を聞いてさらに赤くなる。そういうものなのかと納得したことにし、真由はその日部屋を去った。
*
別の日。
再び真由が野崎の家を訪れた。
「はーい、どちら様――」
インターホンを鳴らし、出てきたのは兄でありこの部屋の家主である野崎梅太郎……ではなく、御子柴だった。真由は驚いて目を見張る。
「真由か、ちょうど良かった。俺花描き直しに来てんだけどよ、野崎が買い出しに行っちまって留守番してたんだよ。留守番するのは構わねえけど、俺だって一応他人なんだから気をつけろって今度言ってやってくれ」
「他人……」
またあの黒い澱みが真由の心を覆った。
真由の呟きに対して何と言ったのかと聞き返した御子柴だったが、返答はなかった。
真由を迎え入れ、御子柴はやっと集中できると言葉を漏らして正座をし、すぐに自分の作業に戻った。真由は本棚を漁りぱらぱらとページを捲るが、性格上本にはすぐ飽きてしまう。特にやることもないので御子柴の作業を眺め始めた。
原稿にあった視線がだんだんと上へ向かう。繊細な線や点を描く手。少女漫画に映えそうな、男の割には華奢な肩。ガラス玉のような輝きを放つ赤い瞳と、それと色を同じくしたサラサラの髪。目の前の男に見惚れていたことに真由自身が気づいたときには、既に手遅れであった。
「どうしたんだよお前、じろじろ見て」
「いえ、綺麗だなと思って」
「花がか!?そうか?すごいか!?」
ぱあっと御子柴の顔が明るくなり、ふにゃりと笑う。真由はそれを見て一瞬硬直し、訂正する。
「ちがいます、花も綺麗ですけど、実琴さんが、です」
真由はいたって真面目に返したつもりだが、御子柴にとっては思わぬ返答であった。
「お、男に綺麗って言われても嬉しくねえだろ」
御子柴の顔に熱が昇る。真由がさらに御子柴に近づく。
「この前兄さんが言ってました」
「は!?なんて」
「男なら、好きな人間を自分のものにしたくなる、と。今俺、実琴さんを俺のものにしたいなと思いました。だから俺実琴さんのこと好きです」
「そ、それは野崎が言ってるだけだろ!だいたいあいつは少女漫画家脳なんだから、皆が皆そんな風に思ってるとは限らねえって!!」
御子柴の必死の反論に少しむっとしながら返答する。
「…それなら、」
「え?」
「それなら、千代さんの言ったことも当てはまれば俺が実琴さんを好きだって認めてくれますか」
へ、と御子柴の返答は実に気の抜けたものであった。
「しばらく考えます。今日はもう帰りますけど、今度会うときには俺が実琴さんを好きだって認めてもらいますから」
鋭い眼光で御子柴を見る。当の本人はへなへなと力の抜けた様子で、返事など出来そうにない。真由が玄関へと向かうと、どこか真由と似た顔の、しかし真由よりもさらに背丈の大きい男が外から扉を開けた。
「おお真由、来てたのか。留守にしていてすまなかった。何か用事だったか?」
今度こそこの部屋の家主、野崎梅太郎である。
「いえ、今日も様子見です。帰ります」
もういいのか、と野崎が訊くが、そんなことはお構いなしに真由は言う。
「実琴さん。俺、熱烈にアピールするらしいので覚悟しておいてくださいね」
何も分からない野崎はきょとんとしている。御子柴は充分熱烈だっつーの、と漏らしたが2人には聞こえなかった。
「あ、あと、兄さん」
「どうした?」
「また来ます」
ガチャリと音を立てて扉が閉まる。
先程とは一転、野崎の表情が明るくなった。閉まる間際に次はチーズケーキを作って待っていると声をかけたが、真由に聞こえていたかは分からない。
部屋には嬉しそうにレシピ本を手に取る野崎と、自身の髪や瞳と同じくらいに顔を赤くした御子柴だけが残された。帰路につく真由の頭の中は次にあの扉を開けたとき御子柴がどんな表情をするのかということだけで埋め尽くされ、心を覆う黒い澱みはいつの間にか消えていた。